『シッダールタ』

令和に自己を探究していく舞台が堂々開幕『シッダールタ』観劇レビュー

 

舞台『シッダールタ』!

今回は『シッダールタ』の舞台レポートをお届けいたします。開幕してから、つい先日12/9の公演をもって折り返したという本作はかなりのロングラン。やればやるほど円熟味が増していき、更にそれが非常に重要な舞台だと思います。しかし、観た人の中には正直あまり理解できなかったなぁ。という感想抱かれた方もいるのではないでしょうか?また、少しハードルが高そうな舞台だなと感じている方もいるかと思います。

今回は少し遅くなってしまいましたが、私なりに原作も読破し舞台も原作を参考にしつつ、私なりの視点で紹介していきます。ぜひ、上記のような気持ちのお客様も一度読んでみて下さると幸いです!

 

ヘッセの往年の名作『シッダールタ』と『デーミアン』のエッセンスから。

まずはストーリーをおさらいしましょう。主人公はシッダールタという男。この男はバラモンという階級に属します。この階級はインドの最上位です。インドはカースト制度が非常に色濃い社会。日本ではどうしてもイメージしにくいですが、生まれた時から階級が決まってしまっているのです。このバラモンという階級は本当に想像を絶する階級の高さ。イメージしにくさを加味して、舞台の『シッダールタ』の序盤で「バラモン以外は人にあらず」「乱暴をしてもそれがバラモンからなら喜ぶべき」といった趣旨のセリフがあります。こちらは原作小説にはないもので、脚本上の工夫です。

そんなバラモンのシッダールタは友のゴーヴィンダと共に身分を捨てて、苦行者に加わります。この苦行者とは俗世を捨て、食べ物も恵んでもらう最小限で後は瞑想等で過ごす人々。劇中では「サマナ」と呼ばれます。そこからシッダールタは様々な気付きに応じて身分を変えていきます。遊女のために大商人になり、金持ちになり、渡し守になり…その果てにシッダールタは自己の解放と世界の心理に気付くのです。

 

日本で上演されることへの思い

実際の俳優たちの芝居に行く前にもう少し、舞台『シッダールタ』とヘッセの原作たちを日本という視点から考えていきます。

皆様は「あなたが信じている神や宗教は何ですか?」と聞かれたら何と答えるでしょうか?

無論、何か特定のものがあればそう答えるでしょう。とはいえ、日本では多くの人が「ありません」と答えると思います。ですが、日本では初詣で本当に多くの人が神社にいきます。これは世界でみても異例なことであんなにも多くの人が新年として神社に向かう国はありません。それでも、信仰しているという気持ちはあまりないのです。日本では宗教に対して独特な一種の忌避感や実態の希薄さがあるように感じられます。

舞台『シッダールタ』は神の話や経典の話を避けては通れません。そういった類の話が当然のものとして万人に流布している世界だからです。恐らく、そういった世界観で躓いた人もいるのではないでしょうか?しかし、述べてきたように日本でも知らず知らずのうちに多くの人が神を信仰しており、要は深度と知識の差でしかないと考えると少し身近になるかと思います。

今のSNS時代においての自己と舞台『デーミアン』ではなかったわけ。

舞台のキャッチコピーにもなっていますが、ヘッセの原作でも「自己を探す」というのは大きな命題です。よく「自分探しではインドにいけ」といった冗談めかした言葉がありますが、『シッダールタ』の影響も色濃いでしょう。

SNS全盛における自己は非常に難解だと私は考えます。

例えば映画を鑑賞した後にXでその映画を検索すると、様々な感想が出てきます。そしていいね!が多いものほど上位にきたりもするはず。そんな時、自分の感想がブラッシュアップされるのではなく「乗っ取られた」ような感覚に陥ることはないでしょうか?私はあります。純粋な自分の感想に他人の感想が上乗せされ、あたかもそれが自分の感想のようになってしまう。

そうするとそれはもう「自己」ではなくなってしまいます。匿名の誰かの言葉をすぐに閲覧できるというのは知らず知らずのうちに浸食される怖さがあるのです。

原作『デーミアン』ではエーミールという少年が自己に悩み、子供時代から自己とは何かを考え大人になり、デーミアンという少年と共に自己を見つけるお話です。『デーミアン』では宗教と戦争が深く関わっています。そのため、随所で刺さる言葉がありますが、もし『デーミアン』として舞台化した場合、お客様には浸透しにくいと思いました。ですが、『デーミアン』も素晴らしく、何故『シッダールタ』になったのかもっと理由があるように感じます。

ここで先程のSNSの話ですが、Xには本当に様々な人がいます。金持ち、噓つき、インフルエンサー…様々な人間が名札をつけて浮遊している。この感覚があるのが『シッダールタ』なのです。『デーミアン』ではエーミールの視点から外れたものは物語上でスポットライトを浴びません。酒場の悪友などはいましたが、それは一部で基本的にエーミールからみて名がある人間は少ないです。

一方『シッダールタ』ではSNSに存在するかのように様々な人間がシッダールタの周りに浮遊します。その多くがシッダールタの持つカリスマ性のようなものに勝手に集まるのです。シッダールタにとってそれは「そこにあるもの」だったかもしれません。そしてまた自然もそうなのだとシッダールタは気付きを得ることもありました。『シッダールタ』は実は令和を生きる我々に通ずるものを沢山内包しているのです。

※カメラをもった草彅さん。舞台ならではの演出の工夫です。

私は「令和の日本」で舞台『シッダールタ』をやることに感銘を受けました。ですが、難しすぎやしないか…?となったのも事実です。しかし、原作から少し紐解いてみると上記のように共通点もある『シッダールタ』は今この時に自己探究について問いかける作品として大いに刺さるのではないかと思います。そういったことを意識してか、舞台『シッダールタ』では現代と繋がっているかのような演出もありました。公式サイトには友人のデーミアンに促され、とありますが私はその促された場所が現代のように感じました。心の中とも解釈できます。あのようなシーンは原作にはありません。

では実際の舞台を観ていきましょう!

インドの空気を作り出す、練られた環境作り。

まず、はじめに私は動物を人間が演じていることに驚きました。『シッダールタ』では自然が非常に重要です。シッダールタの気付きに自然が欠かせないものであるため、そこが雑になると物語の根幹がぶれてしまいます。その中で動物として身体をしなやかに使い、表現している演者の皆様はすごかったです。

環境はSEや匂いでも再現されます。ここで注目したいのが楕円形の舞台で役者たちが滑り落ちて登場してくる舞台構造。私は今まで観たことがありませんでした。物語を通してみると、あの舞台はさながら地球にもみえます。この形によって自然を全て表現しなくてもSEや一部の演出によって「自然の中に存在している」という風にも捉えることができます。脚本の際に日本でわかりやすいようにする工夫というのを紹介しましたが、この作品はそうした伝えるための工夫が随所にあり、私はそれが好きです。

 

草彅剛という役者が示す求道者

※左が草彅さん。右が杉野さんです。

シッダールタを演じました草彅さんを私は素晴らしく思います。

初見で観た際には、まず長台詞を滑舌良く嚙まないことに驚きました。シッダールタはセリフ量が多く、また口なじみがないセリフも圧倒的に多いです。それをすらすら言えるのは驚愕でした。

また、シッダールタとして生きるということについて『デーミアン』も踏まえて考えてみると草彅さんが演じていた姿がピタリとはまるのです。シッダールタは色々な事を気付いていきます。ですが、それはあくまで自己を理解したということで名声のために発見したというわけではありません。また、理解すれば疑問がわきます。その姿勢が公式サイトにもありますが「求道者」だと私は感じます。つまり、感情表現として爆発することがない、満足がないのです。

草彅さんのシッダールタはそういった些細な機微を細かく拾っているように思います。セリフを流さず、生きているように思いました。目まぐるしく変わるシッダールタという男の脳内を言語化しながら、感情として爆発させず表現する。役への深い理解度が伺えます。また、それは日頃から草彅さんという役者が様々なことに目を向けているようにも感じました。日常の些細なことから何かを考え、深めていく作業は一朝一夕にできるわけではありません。役者として生きるということへの草彅さんの意識がシッダールタから少し観れた気がし、感服もいたしました。

中でも私が好きなのはシッダールタが金持ちになり博打に興じるシーン。全てをつまらなく感じているシッダールタの姿勢・目は直前のカマラーに全てを捧げていたキラキラした目とはまるで違います。その落差を激情で表現せずに存在することで淡々としています。その落差と切り替えは要注目です。

 

苦悩する青年であり大人であるシッダールタに寄り添う杉野遥亮の芝居

※ 杉野さん。写真でみると表情だけでなく手の先まで芝居なのがわかるように思います。

シッダールタの友、ゴーヴィンダを演じた杉野さん。まだ30歳と若い俳優。ですがゴーヴィンダという難しい役柄を好演しています。

ゴーヴィンダはシッダールタにくっつく友、それはさながら『デーミアン』における主人公エーミールのようにもみえます。ここで難しいのが、ゴーヴィンダは内面的な描写が少ないということです。シッダールタは主人公ですから内面描写がセリフとしても数多くあります。しかし、ゴーヴィンダに関しては特に釈迦に帰布してから、渡し守のシッダールタと再会するまで描かれていません。つまり、隙間を埋めるのは自分次第です。

杉野さんのゴーヴィンダは気弱そうでシッダールタが大好きな青年。もしかしたらそこには性愛もあるのではないかというくらいです。(ここもエーミールとデーミアンの関係性に似ています。)それはお芝居の真っ直ぐさによく表れていると思います。私が注目したのは最後の場面。ゲネプロで観た際には何が起こっているのか解釈が難しかったです。しかし、再度観ると杉野さんが自然とシッダールタに感動しているようにみえました。その際にゴーヴィンダの心の中で何が起こっているかは原作を読まないと理解するのは難しいかもしれません。ですが、その事象を通じてゴーヴィンダに起こる変化を凄く繊細に捉えているように感じました。その繊細さに起因するのが、空白期間を埋めた杉野さんの役作りだと思います。杉野さんの年齢以上の人生を歩んだゴーウィンダの価値観をつぶさに捉えているような姿勢が印象的でした。

 

カマラーという世界観を体現する瀧内公美

瀧内公美さんは今回カマラーとエヴァを演じています。中でもカマラーは物語の中でも非常に重要な役。シッダールタの人生には様々なターニングポイントがありました。カマラーはその中でも大きな役割を果たしています。また『デーミアン』と比べてみると、エーミールがデーミアンの母と性的に結ばれることはありませんでしたが、『シッダールタ』では性的な結びつきも出ています。それは舞台でも同じです。

カマラーは絶世の美女ですが、遊女。お金を払えば遊ぶことができます。サマナから遊女に夢中になるその落差に驚いた人も多いでしょう。瀧内さんのカマラーは凄く落ち着いた雰囲気を纏い、カマラーという人柄に沿うようなお芝居をしています。カマラーもまたゴーヴィンダと同じく余白が多いキャラクター。加えてシッダールタたちとは違い、学の面でそれほど秀でているわけではありません。しかし、遊女という職を通して様々なことを学び、それをシッダールタに教えました。

※ カマラーとカーマスワーミの別れの一幕。対照的な2人の表情が印象的です。

カマラーが飼っていた鳥。こちらは舞台ならではです。これも『デーミアン』の影響で、『デーミアン』では「卵の殻を破ることが、世界を破ることである」というメタファーが作中で大きなポイントとなります。舞台『シッダールタ』ではカマラーは最後に鳥を逃がし、商人のカーマスワーミはその鳥籠をカマラーが使っていたものとして売ります。これは凄くいい対比だと考えています。

私は『デーミアン』と照らし合わせても、逃がした鳥はシッダールタだと考えます。つまり、カマラーから去ることでシッダールタは世界を破ったわけです。そしてその用済みの殻、鳥籠をシッダールタがお世話になった(シッダールタ自身はカーマスワーミと対等である。と言っていますが、はたからみればサマナのシッダールタを拾った恩人であることは否定できないと思います。)カーマスワーミがお金で売り払ってしまうというのは俗世や人から、シッダールタが本当に足を洗っていることがよくわかるように感じました。

ですが、カマラーはそんな鳥籠と鳥を飼育していたわけです。その懐の深さ、暖かさ、妖艶さ。相反する作用が含まれた女性を瀧内さんは演じています。ダイナミックな動きや性的な言葉によって少し入りづらいセリフもあるようには感じましたが、カマラーの信念はどこのセリフに宿るのだろう?と考えながら観ると観る人に応じた発見があるかもしれません。瀧内さんのカマラーは本当に人によって全然違った場所に印象を受けるのではないかと感じました。ですが、それこそがカマラーの本質だとも思います。カマラーは遊女であり賢人でもあるという人に応じた面を持っているからです。非常に瀧内さんのカマラーへの愛が光るお芝居だったと思います。

特に、私はシッダールタとの出会いの場面が好きでした。つかず離れずの距離感を上手く表現していると思います。あのミステリアスさが男性を虜にしているのではと考えはじめると、自然と私もカマラーに惹かれているような気持ちになりました。魔性の女といえば簡単ですが、演じるのは並大抵のことではないと思います。

 

川だけでなく物語の渡し守ヴァスデーヴァとノゾエ征爾の雰囲気

※左が草彅さん。右がノゾエさんです。

最後にヴァステーヴァを演じたノゾエ征爾さんの芝居について。ヴァスデーヴァはシッダールタに最後の気付きを与える渡し守です。シッダールタは釈迦と遜色ない賢人だったといっています。だからこそ、大変難しいでしょう。お客様はシッダールタの物語を観てきた上で出会うわけですが、ヴァスデーヴァは描かれていない彼自身の人生の中で賢人となっていきました。そこの背景がにじみ出なければシッダールタより賢人だという説得力になりません。加えて釈迦と違い、見た目や雰囲気がごく普通の人であることも重要です。

そんな絶妙な役をノゾエさんは丁寧に演じていました。出会いのシーンから川という師に至るまで、どんな奥さんと結婚し看取ったのか。説明されていない余白をシッダールタの言葉を聞くという姿勢からお客様に少しでも伝わるようなお芝居をしていたと思います。私は特定の場面より、雰囲気が好きで、ずば抜けた聞き上手なのに普通であるという空気感の作り方が非常に上手いと感じました。全く嫌味がない、なのに聡明であるという雰囲気。役作りの仕方が非常に気になるお芝居でした。

 

おわりに。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

まだ紹介した場面や役者さんはおりますが、是非ともそれは実際の舞台や映像で確かめてみてください!本当にこの舞台、そしてヘッセの原作も解釈が多種多様になるものです。私の一意見が皆様の彩りになれれば幸いです。いつか観た人と語り合いたい、そんな魔力のこもった熱のある舞台でした。

 

(文:田中諒)(撮影:細野晋司)

 

公演情報

『シッダールタ』

【原作】ヘルマン・ヘッセ「シッダールタ」「デーミアン」(光文社古典新訳文庫酒寄進一訳)
【作】長田育恵
【演出】白井 晃
【音楽】三宅 純

【出演】

草彅 剛、杉野遥亮、瀧内公美
鈴木 仁、中沢元紀、池岡亮介、山本直寛、斉藤 悠、ワタナベケイスケ、中山義紘
柴 一平、東海林靖志、鈴木明倫、渡辺はるか、仁田晶凱、林田海里、タマラ、河村アズリ、松澤一之、有川マコト、ノゾエ征爾

◻︎公演日程
【東京公演】
公演日程:2025/11/15(土)-2025/12/27(土)
会場:世田谷パブリックシアター

【東京公演】
公演日程:2026/1/10(土)-2026/1/18(日)
会場:芸術文化センター 阪急 中ホール

公式サイト
https://tickets.tbs.co.jp/siddhartha/

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