【廃墟文藝部×しあわせ学級崩壊】ミクロとマクロを繋ぐ演劇的アプローチ
斜田章大(廃墟文藝部)と僻みひなた(しあわせ学級崩壊)【廃墟文藝部×しあわせ学級崩壊】ミクロとマクロを繋ぐ演劇的アプローチ
「しあわせ学級崩壊」と「廃墟文藝部」は、それぞれ自劇団でオリジナルの楽曲で劇作する特徴的な劇団だ。東京・名古屋と活動拠点の異なる劇団が、オンライン上で公開している互いの作品を鑑賞し合い、座談会を実施した。
しあわせ学級崩壊は、クラブミュージックの演奏に乗せた台詞のマイクパフォーマンスが特徴的な劇団。2021年7月16日-18日には、吉祥寺シアターで新作『終息点』の上演を控え、前回公演『幸福な家族のための十五楽章』の上演映像をConfetti Streaming Theaterで公開中だ。
廃墟文藝部は、プロジェクター演出など特徴的な演出を交えながら、一人称視点で描く私小説風な演劇作品を発表する名古屋の劇団。映像作品にも力を入れており、過去上演作の多くはYoutubeで視聴でき、短編作である「鑑賞小説」の発表も行っている。
<しあわせ学級崩壊>
東京の劇団。僻みひなたが脚本・演出・音楽・演奏を務める。
オリジナルのダンスミュージックにセリフを乗せて演劇を上演するスタイルを特徴とする。2021年7月16日-18日、吉祥寺シアターにて新作『終息点』を上演する。前回公演『幸福な家族のための十五楽章』の全編映像もConfetti Streaming Theaterにてレンタル販売中。
劇団HP:https://ha-ppy-cla-ss.net/
映像配信:https://ha-ppy-cla-ss.net/stage/15/
<廃墟文藝部>
名古屋の劇団。斜田章大が脚本・演出、瀬及一郎が音楽を務める。
一人称小説のような、【誰かの視点から見た世界】を表現した演劇を作る。自作した音楽、映像に役者が合わせる音楽的な作品も多い。映像作品にも力を入れており、過去作をYoutubeで全開中。短編映像の「鑑賞小説」も発表中。
劇団HP:https://haikyobungeibu.jimdofree.com/
Youtube:https://www.youtube.com/channel/UCM_0L9hS75ISOI9KK_WGY0A
対話をするのは、しあわせ学級崩壊の脚本・演出・楽曲・演奏を担う僻みひなたと、廃墟文藝部の脚本を担う斜田章大。
二つの劇団へ出演したしあわせ学級崩壊の俳優・制作の林揚羽と共に、それぞれの劇作へのアプローチを探った。
1.劇作の主軸/脚本主導・音楽主導
僻み
廃墟文藝部さんの作品は、しあわせ学級崩壊 劇団員の林揚羽が出演した『ミナソコ』(2018年)を劇場で観劇しました。また、令和元年度名古屋市民芸術祭特別賞を受賞/第26回 劇作家協会新人戯曲賞の最終候補作のノミネートで話題となった『サカシマ』(2019年)をYoutubeで鑑賞しました。
廃墟文藝部『サカシマ』(2019年千種文化小劇場)
斜田 劇場でもご観劇いただいているのですね。ありがとうございます。
僻み 初めて観たときから、劇団の強みは脚本にあるということがビシバシ伝わってきました。プロジェクター演出やオリジナル楽曲など、どれだけ特徴的な演出を効果的に使っても、物語の強みが消されずに、演劇の主軸が脚本にある。自分は劇作の傾向が演出寄りというか、物語が演出に押されてしまう傾向があります。
斜田 少し意外です。しあわせ学級崩壊さんの作品は、現在映像配信中の『幸福な家族のための十五楽章』(2021年)を視聴させていただきました。劇を観たときも、脚本も読んたときも、僻みさんは脚本に力があって、脚本に主軸を置いているひとだと感じていました。
僻み そう言っていただけると嬉しいです。自分の脚本と音楽と同時進行で作ります。しあわせ学級崩壊はどちらかというと音楽が主導で、音楽に脚本がついてくる感覚が大きい。言葉をどうやって音楽に均すかを考えながら、音楽に引っ張られながら脚本を書く。音楽に脚本がついてこられなくなると、「脚本が弱い」と感じます。廃墟文藝部さんは、一本軸が脚本にあるように感じました。
斜田 確かに、どちらかといえば脚本に軸があるかもしれません。自分は脚本のアイディア出しを多く行って、それから複数のアイディアを繋げる橋を探して脚本を作ります。そのため、脚本がすべてボツになることもしばしばあります。ただ、もちろん、音楽や役者にも影響を受けて書き直したりもします。私の劇団では、座付き音楽家である瀬乃一郎が楽曲を作っていて、彼が作る楽曲に気づきや影響を貰うことが多いです。こういった影響を受けることは、演出家・脚本家であれば誰しもあることだと思うのですが、僻みさんの場合は、自分の中で脚本と音楽に影響を与え合えることができるんですね。それは、最強ですよね。
林 僻みは普段、あまり脚本を書き直すことが少ないですが、それはやっぱり楽曲と合わせて脚本を書くため、修正しづらいからなのでしょうか?
僻み もちろん書き直すことはあります。ただ、楽曲が完成すると、構成を動かしづらくなる。例えば、Aメロが16小節、Bメロが8小節、サビが16小節という楽曲と脚本を書いた後に、「ここを書き足したいな」と思い後から8小節を伸ばしてみても、この楽曲には合わないな…と感じ、直しづらさを感じることがあります。
斜田 なるほど……。僻みさんのような演劇の作り方をしている方は、ひょっとしたら世界に一人かもしれませんね。
林 『幸福な家族のための十五楽章』は、2020年の上演を目前に、コロナウイルス感染拡大の影響により中止となり、脚本と楽曲が完成してから、実際に上演されるまで1年もの期間がありました。そのときは、脚本や楽曲も大幅に見直されています。そのため、関係者から観ても、脚本が強くなった。斜田さんが僻みの作品に脚本に主軸があると感じたのは、そういった背景があるかもしれません。
僻み 1年かけることができたので、考える時間が多かったですね。上演中止は悔しかったですが、脚本をブラッシュアップし、良い作品に仕上げることができたのは良かったです。
2.簡単に消費されない作品を作る/しあわせ学級崩壊『終息点』
斜田
音楽主導で演劇を作ろうと思ったら、結構モノローグ寄りになる気がします。でも、『幸福な家族のための十五楽章』の台本の主軸は、ほとんどが会話にあった。音楽に合わせるなら、モノローグで作った方が圧倒的に楽だから、これは、新しいなと思ったし、絶対に拘っている、意図があるポイントではないかと感じました。
しあわせ学級崩壊『幸福な家族のための十五楽章』(2021年WestEndStudio)
僻み おっしゃる通りです。もともとは、会話が少なく、モノローグの比重がすごく大きかったんです。そういう意味では、昔の方が「音楽寄り」だったように感じます。それは、昔から自分には演劇コンプレックスがあり、演劇だけをやってきたわけではないから、演劇だけで勝負しても勝てないという不安によるものでした。それが劇作を重ねるうちに、演劇から逃げちゃいけない、と感じるようになり、作劇を演劇に寄せていきました。その結果、音楽にダイアローグを乗せるようになった。
斜田 言ってしまえば、一つの決意なのですね。
林 『卒業制作』(2019)でも、モノローグの色が濃かったですね。PVを観ていただくと分かりますが、自身の感情に陶酔したような印象が強く、物語よりは、人の感情に目が行きます。そこに会話という手段が増えたことで、『物語』への多様なアプローチができようになったと思います。
僻み モノローグもそうですが、『卒業制作』ではセリフを全て音ハメしています。16分音符に一個に一音を乗せるという手法で、音楽とセリフのグルーヴを生むことを狙っていました。ある種セリフが歌詞のようになっているわけですが、この手法では、発話がすべて等速になってしまう。演劇をもう一段階面白くしたいと考えたときに、悪い意味でその縛りに引っ張られている感覚が生まれてきました。そのため、今は音楽の比重を減らして、演劇寄りに作品を作っています。
しあわせ学級崩壊『終息点』アートビジュアル(2021年吉祥寺シアター)
斜田 それを経て、今週末7月16日-18日に上演される次回作『終息点』は、いかがですか?
僻み 今までで一番、演劇寄りな作風になりました。
斜田 すこし掘り下げたいのですが、『演劇寄り』という表現は人によって意味の違う言葉だと思います。僻みさんにとっての『演劇寄り』は、演劇のどこの要素を指しているのでしょうか?
僻み 物語性ですかね。物語をどれだけストレートにみせるか。物語を見せようとする作品が、演劇寄りだと感じます。
林 『演劇寄り=物語寄り』の対義語は『音楽寄り』ですか?
僻み そうですね。『幸福な家族のための十五楽章』は比較的、「物語寄り」だったのですが、『終息点』はもっと「物語寄り」な作風となっています。『音楽寄り』の自分の作風は、消費感が強いというか。今の自分の生活に合わないように感じました。
斜田 上演映像や脚本を読んでも感じたのですが、今回お話ししてみて、やはり言葉の選び方がお上手だなと感じました。なるほど、消費感。自分も作品を作るうえで嫌だなと感じていたことが、的確な言葉で伝えられたように思います。
僻み 普段、作品を作る時に、今の自分の生活で一番思っていることを書く、という作り方をしているのですが、最近はあんまり、人を感動させたいという気持ちがなくなってしまって……。
斜田 (笑)
僻み アンチ感動みたいな風潮を、自分の周りから感じたんですね。それはオリンピックであったり…。感動が悪いわけではありませんが、今の自分の生活の本質は、簡単に消費できるような、「よかったね」で終わらせられるようなものではないと感じたんです。今回は、四つ打ちの音楽で気持ちよくなって、その場で満足できるような作品を作るというマインドになれなかった。ですので、クラブミュージックはあまり使っていません。もっとどろどろした音楽で劇を作っていて、結果的に演劇的な作品になりました。
林 『幸福な家族のための十五楽章』や『卒業制作』では、いわゆるエモシーンが挟み込まれている。抑圧されたシーンが続いた後に解放されるシーンがあることで、観客や役者がカタルシスを得る音楽的構造になっていますが、ある種、感動や消費感につながっていますね。
僻み 普段はどちらかというと、その場で完結させようと思って劇を作っています。例えば、涙を流せばすっきりして家に帰れる。次回の『終息点』は、その場で完結させないというか、もやもやして家に帰ってほしい。だって自分が今もやもやしているから。それが自分の今の生活の本質なので。
しあわせ学級崩壊『卒業制作』(2019年花まる学習会王子小劇場)
3.ミクロとマクロを繋ぐ生理的感覚/廃墟文藝部『サカシマ』
廃墟文藝部『サカシマ』(2019年千種文化小劇場)斜田
実は、自分は最近物語への興味が薄れていっています。
最近の悩みなのですが、会話を上手に書こうとすると、小さな物語しか書けなくなってしまう。一方で、大きなテーマを描こうとすると、省略が必要となる。省略を埋めるためには、演出が必要となる…。そうすると、どんどん演出がゴテゴテになっていき、会話と離れてしまう。自分は、会話に主軸を置きながら大きなテーマを描きたいと考えていて、それを両立させるために、最近は物語以外のものが必要になるんじゃないか、ということを考え始めました。
僻み 「物語性」を手放して向かう先は、どういった手法になるのでしょうか?
斜田 最近、会話と大きなテーマを両立させるために必要なのは、「万人が共感できる生理的なもの」ではないかと考えるようになりました。
僻み 視覚や聴覚でしょうか?
斜田 それに限らず、例えば、文化圏が違う人にも共有できる感覚です。例えば、「怖い」。高いところにいると怖いという生理的感覚。
僻み それは、『サカシマ』(2019)でも効果的に使われていましたね。先ほどは脚本の強度の話をしましたが、演出がとても面白い。例えば、高いところから卵が落ちてくる演出。卵は命でもあり、頭にも似ていて、柔らかく砕ける瞬間が肉体的な破損にも近い。卵が劇の冒頭で落ちてくることで、劇の緊張感をずっと維持させていた。
林 舞台美術として、天井にコンクリートブロックが吊るされていたのも、いつ落とされるのかハラハラして、とても怖かったです。
斜田 ありがとうございます。意図としてはその通りで、卵が落ちてくるのはみんなが嫌だし。高いところに、重くて硬いものが吊るされているのは怖い。『サカシマ』を書く前に、サーカスを観に行ったんです。そこで、人間全員、火を観ると怖いし、ライオン出てくると怖いし、空中ブランコはヒヤッとする。
僻み なるほど、確かにサーカスは、子供でも楽しめますからね。
斜田 その時、観ていてとても楽だなと感じました。誰もが感じる生理的な感覚であれば、脚本上の「省略」も、無理なく埋めることができるのではないかと。
僻み サーカスから着想を得て、卵を落下させる演出につながったのですね。
斜田 卵の落下を自殺する女の子のメタファーとして描く演出ですが、これはもともと2019年に劇王で上演する予定だった『わたしは逆らう放物線』という作品の構想にありました。この作品には、当時、林揚羽さんへ出演オファーをしており、落下する女の子のイメージは林揚羽さんから聞いたエピソードから浮かんだものでした。林さんが高校時代、不登校となった友人と同居生活を送ることで、一緒に学校へ通ったというエピソードを聞いたことがあり、このとき、林さんが、友達の代わりにイジメっ子へ復讐するために、空から降ってくる話が良いな、と思ったんです。結局、林さんは東京への転居が決まってしまい、この作品自体は没となってしまったのですが、モチーフは『サカシマ』に引き継ぎました。
林 たしかに、わたしが『ミナソコ』(2018)で演じた砂川彼方という役も、このエピソードに影響受けていましたね。言われてみれば、『サカシマ』の主人公は強い意志をもって落下をしていました。
僻み 『サカシマ』では、劇中でずっとカウントダウンがされていて、それが劇を前進させる効果として、劇の緊張感を高めると共に、落下する女の子の意志の加速を高めていたように思います。
4.ミクロとマクロを繋ぐ文脈/しあわせ学級崩壊『幸福な家族のための十五楽章』
写真5:しあわせ学級崩壊『幸福な家族のための十五楽章』(2021年WestEndStudio)斜田
小さな物語と大きなテーマを橋渡しするもう一つの要素として、作品を観ている人ならば全員知っている、記録や事件があると考えています。例えば、僕は平成元年生まれなのですが、僕と同じ年代であれば、全員がビルに飛行機が突っ込む映像を観ている。もうすこし最近だと、東日本大震災の津波の映像だとか。それらを共通認識の要素として使うことで、省略をしやすくなるんじゃないかと。
僻み それは…たぶん僕が苦手な部分ですね…。普段、自分のことしか書かないので、お客様と文脈を共有しようという意識が、少し薄いんです。ただ、生理的感覚を共有する取り組みは、音楽で取り組んでいるので、得意な部分といえるかもしれません。
斜田 『幸福な家族のための十五楽章』を拝見して、僻みさんは、大きな物語と、小さな物語、両方を書きたい方なのだと感じました。小さい物語は家族や友人関係であったり、大きな物語は社会や国や宗教であったり。たとえば、『幸福な家族のための十五楽章』は家族の物語でありながら、世界の物語だと感じました。
ミクロな世界のドラマ性を表現して、そのミクロなドラマ性はマクロな世界でも起きている、という対比で作られている。上手だなと思いました。
僻み そうなっていると嬉しいです。やはり、作劇の出発点が個人的な部分にあるため、昔はミクロに終始する作劇が多かったのですが、これをそのままマクロな世界に繋げたいと考えるようになりました。
斜田 『幸福な家族のための十五楽章』の言葉選びが上手いと感じたのは、「父」という言葉。「父」という言葉からは、万人が家族の父と、神様の父を想像する。更に、「父」の不在性が宗教的な側面を大きくイメージさせる。そのため、これは家族の話であり、かつ世界の話である、ということが観やすかったです。
僻み ありがとうございます。キリスト教の最後の晩餐などもモチーフとして使っていました。
5.個人的な作品のまま万人に届ける
林
僻みは若者特有の「将来の見えなさ」「不安感」を描くことが多く、それがもっと上の世代には共感されないことがある。4年前くらい前は、批評家の方々から「万人に共有できる作品を作るためにも、僻み自身が大人になることを期待する」というコメントをいただいたこともありました。
僻み そうですね、それは自分の中でも問題意識として強いです。
斜田 でも、言ってしまえば、100年ずっと個人的な作品を書き続けてもいいですよね。例えば、太宰治は、なお若者に共感される作品を残しています。そちらに舵を取ることも、できるわけですよね。でも、僻みさん的には、広く受け入れられる作品の創作に向けて進もうとしているのでしょうか?
僻み 個人的な作品を作るのをやめるつもりはなくて。むしろ、太宰的な作品を、どうやって大人の人に分かってもらうか、ということを今は大事にしています。個人的な作品を万人に受け入れられたい。そうしたい理由は、単純に、いろんな人に好かれたいから。(笑)
斜田 なるほど。ミクロな物語をマクロな物語と連動させることで、個人的な作品を社会へ繋げるわけですね。その取り組みは、まさに僕も模索しているところです。個人的な物語を大きなテーマに繋げるために、僻みさんは生理的感覚を操作する「音楽性」に偏った作品から、「物語性」を強めるアプローチをしているわけですが、僕はちょうど、「物語性」から離れて生理的感覚を操作する取り組みを考えていたところでした。
僻み 同じ到達点のために、真逆の方向へ進んでいるわけですね。
斜田 まったく別のところから出発して、僕たちは近づき合っているのかもしれませんね。
(取材・文:林揚羽)
しあわせ学級崩壊『終息点』
脚本・演出・音楽・演奏:僻みひなた
出演:
村山新、大田彩寧、福井夏、田中健介、林揚羽
2021年7月16日 (金) ~ 7月18日 (日) /吉祥寺シアター