エントレ読者の皆様、初めまして。
楽劇座の関口です。
座では芸術監督として、定期公演で取り上げる作品の選別・決定、配役等、作品創造に関する全体を統括しています。創作現場での具体的な仕事としては、劇作・演出、作・編曲、演奏を担当しているのですが、昔から「何屋さん?」と言われることしばしば。ですが、私としては私自身の中でこれらすべてが一体不可分、有機的に結びついておりますので、幾つかの異なる仕事を一人で担当しているといった認識はありません。とは言え、創作過程のそれぞれの局面で特定の顔がクローズアップされるのもこれまた事実。そんな訳で、今回はその中から“演出家の仕事”についてお話したいと思います。
とは言え、“演出”ないしは“演出家”と一言で言っても実に様々なスタイルがあり、誠実にお話しようとすればするほど、他の職業に比べ “演出家”という職業を定義するのは極めて困難を有するのです。定義したところで、実際の各現場に於ける演出家それぞれの“演出感覚”とでもいった様なものとの乖離は否めません。要するに一筋縄では行きません。そこで、“私の場合”を前提とした演出、即ち”演出家の仕事”についてお話して行きたいと思います。
演出とは何か?・・・私の場合
先ず演出家は、作品を読まなければなりません。“読む”とは言っても、ただ普通に誰もが小説を読む様に自分の勝手なイメージを膨らませながら読むだけではいけません。指揮者はオーケストラのスコアを“読む”と言いますが、まさにその様に戯曲を読まなければなりません。私自身、10代から20代にかけてクラシック音楽の作曲技法を学んでおり、そうした影響が無きにしも非ずといった感は否めませんが、実際、“時間の芸術”といった側面に於いて、演劇と音楽はその構造上、多くの共通点を持ちます。
私がキャリアの初期、20代の頃にアシスタント(演出助手)として師事した戦後日本演劇の重鎮、劇作・演出家の津上忠氏(前進座、東宝の商業演劇等で活躍)は「実は、僕が劇作を学んだのはモーツアルトのスコアからだったんだよ。フルートやクラリネット、ヴァイオリン等、各種楽器がその音楽の中で担っている役割を戯曲の登場人物に当てはめたんだ。これ、あまり話したことないんだけど・・・この話するの今日が2回目」と好物のうなぎの白焼きを突きながら仰いました。
このお話が“私の演劇”に多くの示唆を与えて下さったのは言うまでもありません。始まりがあって終わりがある。そして今、目の前で起こっていた芝居、確かに存在していた芝居が次の瞬間には跡形もなく消えてしまう。その限りに於いて演劇と音楽は軌道を一にする。そしてその謂わば残像、心象風景を自らの中で組み立て理解するのが演劇鑑賞、即ち観客の仕事(?)という訳です。まあ、観客との関わり方も音楽と共通する点が多い。
こうした演劇と音楽の共通点( “時間の芸術”という側面)を裏付けに構築していったのが“私の演出術”といって良いでしょう。具体的には、戯曲を3次元化する上で解決しなければならない問題点や、効果的な演出(アイディア)を活字から読み解き、それを役者の身体を通して実現すべく、稽古場で役者に作品の解釈、役の意味等を講釈し、それを実現すべく身体の使い方、台詞の言い回しといった役者にとっての具体的なレベルで指示・指導します。
それはリズムの指示、特定のアクセントやイントネーションの訂正・指示程度では収まらず、指定したフレーズを組み立てる上で障害となっている問題点を具体的に指摘し、その解決策を指示します。
そもそも演技とは何か?
「台詞(延いては言葉)は様々な局面に於いて、異なる意味形態を持ち、演技とは、それを観客に伝達する仕組み。要するに記号化するということである。いわばシニフィアンな行為とも言える」 私はこの様に定義します。
例えば「大っ嫌い!」という台詞があったとします。この台詞の意味はその局面(シチュエーション)によって異なる意味を持ちます。上司にセクハラを受けている女子社員が「大っ嫌い!」と言えばこれはその字のまま「大っ嫌い!」を意味することでしょう(←もちろん、この女子社員が特殊な性癖を持っている等の設定がない限りではありますが・・・)。
ところがどうでしょう? 夕日に照らされた河川敷の土手、学校帰りであろう制服姿の男女が歩いています。男子は自転車を引き、女子はその横を歩いています。まあ、嫌になるほどステレオタイプなアニメーション的設定です。この女子、隣を歩く男子に気があるのです。願わくばお付き合いしたいと・・・。ところがこの男子、その手の話にはちょっとばかり鈍感な今時珍しい純情青年と来たもんだ! 彼女のアプローチに気付く気配なし。彼女の遠回しな告白にも全く気付かず「え?何?」と瞬き2回。そこで彼女ぷいっと横を向いて道端の石など蹴り上げ「大っ嫌い!」。さて、この局面(シチュエーション)での「大っ嫌い?」の意味は? 正解は「大好き!」となります。
即ちこういうことです。実際の台本は台詞も長かったりしますし、内容ももっと複雑だったりします。こうしたことを役者が表情、動き、音(台詞の言い回し等)で表現するのが演技であり、それを如何に観客に伝達するべきか、その為に相応しい表情、動き、音(台詞の言い回し等)はどの様なものかを解釈・判断、指示するのが演出の役割かと存じます。
一般的に、自分が思い描いた人物像、具体的には登場人物の気持ちを観念的に役者に伝えたり、舞台上でのポジションの指示を出す程度が演出家の仕事と思われている節があります。もちろんそれも間違いとは申しません・・・そして実際、それに終始する演出家も多いと聞きます。まあ、他人様の具体的な演出術についてはよく存じ上げませんが、私自身に関して言えば、役者に演技を出す(演出する)上で、できる限り根拠ある指示を心掛ける様にしています。根拠というのは「こうした状況を実現する上では、こうした台詞回し、動き等をすることにより、こうした効果が上がります」といった具合に、説明しようと思えば全て説明できる様な、そうした意味での根拠ある演出プランを意味します。
少なくとも私の演出する作品に限って言えば、演出家と役者はオーケストラの指揮者と演奏者に例えられると思います。もちろん、本番で役者と観客の間に割って入って棒を振ったりこそしないものの、稽古場ではまさにそんな感じです。ですが一つ断っておかなくてはならないことがあります。こうして色々書いてみると、その演出は逐一細かく(実際細かいですが・・・)、まるで役者の自由を奪っている様に思われるかもしれません。ですが、その本質はむしろ逆で、役者の自由を奪うどころか、むしろ“役者を活かす”ことにこそあると言っても過言ではありません。“第一義的な”という意味では、演劇は役者の身体を通して表象されると言っても良いでしょう。実際、役者を活かさずにその作品の本質を表象することは至難の技です。
願わくば、魅力的で能力の高い役者さんを相手に演出したいものです。それはどんな至福の時を私にもたらしてくれることでしょう。ですがまたこうも考えます。私が演出する役者さんは、例えボンクラであったとしても他の何処よりも素敵に、魅力的に見せたいと。
演劇は悲しいかな、良くも悪くも共同作業なのです。同じ土俵に登るのです。演出家だけその外に出ることは決して許されません。
(文: 関口純 ※文章・写真の無断転載を禁じます)