大正時代に踏路社という劇団があった。その実験的な試みは新劇運動と呼ばれた。後の俳優座創始者の一人、俳優兼演出家、偉大なる演技コーチとしても名高い青山杉作と、俳優にして日本映画最初期の巨匠監督でもある村田実により、俳優・岸田辰彌(後の宝塚歌劇演出家にして、宝塚レヴューの創始者)、日本最初期の専任演出家(注釈)現在で言うところの “演出” に該当する行為自体はそれまでにも存在したが、当初は「舞台監督」という名称が使われており、公に「演出」という言葉が使われたのは踏路社が2例目とされる・関口存男(注釈)後にドイツ語学者 ※踏路社では、母方の黒田性を用い、黒田次雄名義で活動らの同人が集められ、1917年に結成された劇団である。彼らの活動がその後、築地小劇場、劇団新東京を経由し俳優座、文学座といった、いわゆる“新劇”(注釈)新劇自体は明治期から存在するが、踏路社の演劇を“現在の形での新劇”“現在の意味での演出家”の始まりと考える説は少なくない。以下、1957年に刊行された青山杉作追悼記念本『青山杉作』収録、関口存男「踏路社時代」からの引用。 「その前には何一つ世間に名を出すようなことをやったためしのない青二才が (中略) 築地小劇場から今日の新劇までに至る、いわゆる「新劇」のタイプをはっきりと打ち出してしまったのである。こんなことを言うと、坪内逍遥派の諸団体の人たちや、小山内薫の関係していた諸流に属する人たちは、何を生意気ぬかすか、新劇というのはおれたちがはじめたものだ、おまえたちはずっと後だった、とおっしゃるかも知れない。しかしそれは「新劇」という名称のことだと思う。現在やっている通りの新劇の芸風、せりふ、脚本のえらび方、理想、演出方(原文ママ)、その他とにかくインテリ層と深く結びついた行き方の芝居は、たしかに踏路社運動がそのはっきりとした皮切りで、その後例の築地小劇場を経て今日に及んだのである」として開花することになる。
新劇黎明期の俳優や劇場関係者たちの名刺
その彼ら(踏路社メンバー)が、西洋演劇の土壌で“日本語による演技術”を獲得しようとした様々な試みは大変興味深い。また、その試みが演技を出すもの=演出家の誕生に寄与した点も注目に値する。中途半端に“演劇”という言葉が市民権を得た現代において、彼らが真摯に向き合った西洋演劇と日本語の切実なる問題意識とそれに伴う実践は、今だからこそ改めて検証するに値する問題である様に思われてならない。
彼らは、作曲家・山田耕作が主張した「アクションには割切れが必要である」という発言に感銘を受け、その更なる研究に没頭する。
「アクションと「物言う術」の相関関係から、抑揚、緩急、音楽、光線等のスペクタクルを構成する全要素の組合せ、按配の問題として、これを統一するのが演出の技能であるというところまで進められたのである。」(松本克平『日本演劇史〜新劇貧乏物語〜』1966)
青山と関口は、アシスタントの印南が丸善の二階で見つけた洋書 George E.Shea 著 “Acting in Opera”を参考文献とし、“アクションと言葉の割り切れ”についての更なる研究を続ける。歌がダメだった青山は、台詞のリズムに関しては敏感だったという。そして、この“台詞のリズム”を掴ませる為、青山と関口は踏路社第3回公演『春のめざめ』の稽古にメトロノームを用いたという。しかし、メトロノームでは芝居の局面に応じて自由自在に拍子やテンポを変えることが出来ない。そこで、青山は指揮棒を用いてテンポ、リズム、ピッチを示し、俳優たちに高低強弱、変化、転換、間の緩急を呑み込ませる方法を取る様になったという。一時期、演出家が指揮棒を持つのがステイタスとなった様だが、その創始者である青山本人が照れてしまい指揮棒を持たなくなったことから次第にそうした流行は過ぎ去ったという。世が世なら、今でも日本の演出家は指揮棒を持って演技を指揮していた?かもしれない。
ちなみに、村田実が演出する予定だったにも関わらず、映画の撮影に忙しくアシスタントだった土方与志があとを引き継いだ柳原白蓮『指鬘外道』という作品がある。この作品で作曲・指揮を担当したのが山田耕作。ところが、主宰者がオーケストラに約束の前金を払っていなかったことから、公演当日になって本番が危ぶまれる事態となり、この作品が実質的な演出家デビューとなる土方は、俳優として出演中だった関口とともに主宰者とオーケストラの間に入り、どうにか事態を収めるべく奔走したそうである。土方にとっては災難というか、飛んだ演出家デビューとなった。
それはともかく、演出を担当した土方自身が踏路社のイプセン『幽霊』を観て影響を受けたと公言しており、何を隠そう俳優として出演していた関口自身がその『幽霊』の演出家であった事を考えれば、こうした演技における踏路社イズムとでも言った様なものと、山田耕作が奏でる音楽のコラボレーションが如何なるものであったのかはとても気になるところだ。余談ではあるが、私は演出家としては偶然にも土方の孫弟子に当たる。そして関口存男と血の繋がった曾孫でもある。不思議なご縁だ。後年、祖母から「映画の試写会で隣に座った山田耕作に会釈していた(曾祖父さんが)けど、向こうもそんな感じで、何だか知り合いみたいだったわよ」と聞かされていたが、実際、一緒に作品を創っていたことがあった訳だからそれもその筈だ。
まあ、それはさておき、ここでは”芝居の局面に応じてテンポが変更される“という点に注目して頂きたい。これこそ音楽と演劇を大きく隔てる点である。もちろん、音楽でも曲中でのテンポの変更はよくある話だ。だが、演劇には音楽の様な拍子の概念がない。3拍子、4拍子といった、いわば西洋合理主義的簡略化をもってして”演劇の時間“は制御できない。むしろ、そこではじかれてしまう端数こそが演劇のリズムにおける生命線だ。すなわち、拍子なきところでのテンポ変更という時間軸における複雑な構造を持つのが演劇の特徴であったりもする訳だ。 ※前回『演技術考Ⅰ』では、上記西洋合理主義的簡略化を“東洋と西洋の音階の比較”において説明しているがリズムも然り。(『演技術考Ⅰ』参照)
テンポ、リズム、ピッチ、高低強弱、変化、転換、間の緩急を指揮棒で指示などというと、オーケストラの話に聞こえなくも無いが、それが演劇の話だという点にこそ注目して頂きたい。そうなんです、始まりがあって終わりがあり、生まれたかと思えば瞬く間に消えゆく運命の“時間の芸術”としての音楽と演劇、これらには上記の如く共通点が非常に多い。少なくとも、演劇において耳を使用する部分に限定すれば、もはや音楽の一分野と言っても過言ではない。物理現象面に限って言うならば、そこに目で見る要素が加わったものが演劇と定義出来なくもない。また、そうした物理的機能を意図的に何らかの意味(ストーリー等に反映される)をもって統括したものが演劇なのだと言うこともできるだろう。
まあ、残されている当時の資料を見ると、これがなかなか難しいことを考えていたのがよく分かる。演出家の作品解釈はもはや哲学研究といった趣すらあり、それらを心理レベルに落とし込む。そうした成果を技術指導をもって俳優と共有し、様々な舞台機構や俳優の身体、演技術を媒介とし、作品世界を如何に観客と共有可能とするか? そうした真摯な実験を読み取ることができる。
関口存男による当時の演劇研究ノート
新劇黎明期、大正期の演劇青年たちの“関心”と、知性を軸とした彼らの弛まなき“探究心”こそ、現代の我々が今一度立ち戻る場所を示唆しているのではないだろうか?
ちなみに彼らが真摯に実験を試みていたまさにその時、世の中はスペイン風邪が猛威を奮っていた真っ只中。そして現在、私たちはコロナ禍に生きている。
この2年、「演劇の火を絶やしてはならない」という言葉を度々耳にするが、果たして公演を続けることだけが“演劇の火”なのだろうか? この機会に“過去”の歴史を振り返り、“現在”を客観的に見つめ直し、来るべき“未来”の創造を思い描いてみるのも“演劇の火“に薪を焼べることになるのではないだろうか?
その7 》[スタジオ術 Ⅰ ] 劇場を捨て、スタジオに籠ろう!? 〜日常と世界が交差する場所〜
(文:関口純 ※文章・写真の無断転載を禁じます)